書く訳ないだろ ブログなんて 鬱病が

こんにちは

中堅くらいの鬱病です。

 

前回の更新からどれくらい経ったんだろうと、毎度同じ疑問を抱く。

 

気づけば私を取り巻く環境が激変していた。

東京は新宿から、沖縄に引っ越して

車に轢かれたり 色々ありました。

死にたがりの私ですが、轢き逃げに遭ったときは流石に死にたくないと懇願した。

 

そんなことはどうでも良いしこれから綴ることも大抵どうでも良い。

 

人は幸せになるとつまらなくなると言ったものだけど、私の文章は拙いながらも昔の方が確かに面白い。

(今も上手くはないけれど)

 

最近は本当に幸せなんだと思う。

幸せになってみて思うことは、凪みたいだなということ。

不幸が絶頂だった頃は荒波でした。

次から次へと文字が浮かんできていた。

それが今や、ただの幸せな鬱病だ。

 

幸せな鬱病というのは矛盾ではない。

友人にも恵まれそれなりの人生を送っている。

ぼんやり家でペットと戯れたりyoutubeを見たり、たまに外に出かける。

 

都内にいた頃は狂気のようなものに駆られて動いていた。

自ら不幸探しの旅をしていたようなものだった。

結果としてそれらは何の意味もなしていなかった。

 

だって今こうして幸せになっているんだもの。

 

皮肉です。

不幸を売って買って生きていた私が

死にもせずのうのうと

のうのうと

幸せに 普通に生きているんです。

 

信じられないです。

不幸ではなくなることがこんなに味気ないなんて!

 

不幸な人を見ると羨ましく思う。

これは、マウントでもあり憧憬でもあります。

 

死にたいと思えるあなたたちが羨ましい。

私は今、とても死にたくない。

死にたくないなんてどんな不幸よりもつらいので。

 

かつて全てをバカにしていた私はどこかへ消えました。

どんどん穏やかになっていって

いつか誰からも見向きもされず、忘れられるような、無味無臭な人になってしまう。

 

もう変なフリをするのは嫌なのに

忘却が怖くて変なフリをしてしまう

やめろやめろ

やめられたらいいね

よくないね

 

ほらまたこうして意味のわからない文章をしたためている

 

さいなら〜

本末転倒

ゲーッ もう10月ってまじですか。

 

こんにちは。呑気に生きています。

気づいたら自分の中で大人だなぁって思う年齢になっていました。

相変わらず鬱病の顔しながら毎日を棒に振りながら意味もなく歳ばかり重ねている。

 

しかし、それはそれで楽しく生きている気もする。少し前の私ならすぐ死にたいだのなんだの宣っていたことだろう。

 

今年は色々あり死ぬことに対する価値観が変わった。と言うよりも生きるべき理由が見つかった。

安っぽい言葉ではあるが周りの人に感謝というやつだ。

 

とは言え人生に希望を見出せた訳ではない。

薄暗い部屋に篭ってぐったりする日の方が多い。

天井とスマホの画面を交互に見ては襲い掛かる怠さや頭痛に悶える日々。

外へ出ようにも能天気な人達で街は溢れているし。

とまあこんなふうに理由をつけて現実から目を背けることへの正当性を生み出している。

 

・本題

以前友人と話をした。

人生は本末転倒であるということについて。

 

自分が住み良い環境を作るにあたり、あれこれ必要となる。

その環境を作るには自分を擦り減らすことが必要となる。

いいとこ取りで全てを成すなんて難しい。どちらかを犠牲にして我々は生きていかなければならない。

 

何のために生きているかわからない、という文言はメンヘラが良く口にするものだが実際のところやりたいことだけやりたいのであって、やりたいことへ到達するにはやりたくないことをやらねばならない事の方が多い。やりたくないことから目を背けているため、やりたいことができず何のために生きているかわからなくなる。

私たちは楽しく人生を送るために生まれてきたはずが、何故か楽しいことをするために楽しくないことを強いられる羽目になった。

 

辛さを乗り越え幸せを手にした後待ち受けるのは次の幸せへの長く険しい道のりだ。

以前もブログで書いたことがあるけれど、幸せと不幸が等しく存在することはあり得なくて不幸の方が絶対的に多い。

幸せのために不幸になるなんて些か本末転倒ではないか。

人生は幸せ不幸せのいたちごっこである。死ぬまで馬鹿みたいにぐるぐる回り続ける。

 

私たちは「知る」ということを覚えた時点で不幸なのだ。

あれやこれやを求めてしまう強欲な生き物になるつもりはなかった。

どうせならば白痴のように何も知らず、何も分からず、何もできず、ぼうっとしながらありのままを享受して過ごしている方が幸せなのではないか?

どこまでいっても人間とは愚かで、愛らしい生き物だ。我々が愛玩動物を見て可愛いと思うように、神や仏も我々を見て悦に浸ってることだろう。

 

 

心や睡眠の安定を得るための薬も、飲まなければ不安が顔を出し、眠ることすらできない。血中濃度が下がれば離脱症状や副作用も出る。

 

健やかな精神状態を得るためにしていることは、自ら不安定になる要素を獲得している、意味のわからない行動だった。

それでもやらねば気が狂うので甘んじて受け入れている。

そうしてこのまま、いつおかしくなるか分からない状態で生きている。不安になれば薬を飲む。薬を飲めば不安になる。訳がわからない。

 

生きていく過程で生じる物事は何もかも無駄だと思う。人が文明を作り、社会を構築し、そして得られたものは環境の破壊だ。

人間が住みやすい世界を生み出すためにやってきたことは人間が生きづらくなる要素となっている。

 

なんとも、本末転倒だ。

 

 

 

 

ちなみにこうして屁理屈を垂れているこの時間が一番無駄です。

とっとと外に出ろヒキニート、これが答えでした。

 

おわり

 

生活が雑

こんにちは。

 

最近本当に生活がやばくて、体がふわふわつめたくなって眠くなる薬を医師の指示に従わずいっぱい飲んで凍結してたり朝の5時までインターネットのお友達とお話しや罵り合いをしてから床に就いたり、巷で噂の5Gに接続できるようになる注射の予約の仕方がわからないまま2ヶ月半経過しました。何なんだこれ。

 

私は俗に言うメンヘラですけど知らん誰かにメンヘラって言われるとムカつくんですよね。

だいぶ前の話だからここで言っちゃいますけど私がいないところで私の話題になり、その場にいた人間が「あぁでもその子メンヘラだから」つってたらしい。

でもって何?可愛いとメンヘラって対立概念か何かか?クソが メンヘラなのに可愛いってそれはアドだろ。いや可愛くはないんですけど。

てかそもそもデブなのにメンヘラなのおかしい気がしてきた。

 

それっ! 今拒食症になりました。今後の私に期待です それか早く殺してくれ

 

日夜インターネットをしながら物申したくなる言動を見ては自分の舌噛んで堪えてます。

こんな思いするならインターネットのことなんて知りたくなかった。

ツイートなんて、ただの文字の羅列なのにそんなもので自分の感情が揺さぶられていることが悔しい。

マジでこれ不毛すぎる。Twitter見るより買っただけで満足した小説を読むべきなんだよな。純文学メンヘラホモ垢として邁進しないといけないから。あームカついてきた。今お前らの悪口5ちゃんに書き込んでる。覚悟しろ。

 

見た目のいい人間に対して、思うところはたくさんありますがあなたたちの見た目が良かったことで齎される幸せよりも不幸せの方が私にとって大きくて、それでも見た目のいい人間のこと好きで好きで...その、なんと言うか勝てないんですよね。負けっぱなしの人生。

ざぁこ❤︎ざぁこ❤︎

肥大した自己嫌悪で無様にオナニーしちゃえ❤︎

顔良人(かおよしんちゅ)に負けちゃえ❤︎

 

だめだ文章すら纏まらない

 

おわり

 

見下すこと

こんにちは。

最近丸くなったねと言われて嬉しくなりました。

それは当たり前なことで、私はすでに成人していて枠としては大人です。

話し方には気を遣って、足りない社会性を補おうとしています。

 

昨今の日本は完全におしまいになっていて、時短営業の影響もあり、ハナから破滅していた人たちは拍車をかけるように寄る辺をなくし地面と一体化しています。

 

私は新宿に住んでいるので、夜の新宿をふらふら散歩することが多いです。

終電を超えた歌舞伎町は2年前あたりと比べクソみたいな人で溢れています。

 

TOHOシネマズ横の道路や広場で地べたに寝転ぶ、ぴえん地雷系の人達(いわゆるトー横界隈というやつだ)に対して私は軽蔑の視線を向ける。

時には冷やかしの声をかけたりもする。

 

彼らはだいたいスクールカーストの底辺で抑圧されてきた層。

仲間内で集まり大声を出すことは得意だけど外野から突然声をかけられると黙ってしまう、言い返せもしない可哀想な人間だ。

かくいう私も特段明るいやつでもない。陰気で根暗で性格が悪いから、同じような人を見ると無性に苛立つ。

暴力沙汰になっても負けない自信があるからそうやって絡みに行く。そうしてキョドる彼らを見て悦に浸っている。

また、路上で騒いでる人以外で いかにも頭の悪そうな女と男が歩きながらイチャイチャしてるときには友達と一緒に大声で「あぁあぁ!楽しそうだねー!混ぜてー!」と茶々を入れる。

 

これら全ての行動は「自分よりバカで愚かでろくでもないやつ」に対しての見下しだ。

 

見下しの対象はある種自己嫌悪で、ネットでスカした態度取ってるやつが嫌いなのも、バカで幸せそうな顔してる大学生が嫌いなのも、文化レベルが低くて読解力もないのに小難しい芸術に触れてる奴が嫌いなのも、全て自分が持っていた要素だ。

 

素直に生きてありのままを享受できることがどれだけ幸せなのか、十分理解してる。

 

私だってハートフル恋愛ドラマに共感したいしインスタの画像は全て白い縁取りで統一したいし、チャミスル飲んで同い年の友達と新大久保でバカになりたい。ZARAでハイブラのパチモンみたいなデザインの服で満足できたら今より幸せ。バッグはMHLのロゴトートとか使っちゃって、香水はマルジェラのレプリカ。beams別注って書いてあったら全部オシャレに見えるから買うとか。

例を挙げたらキリがないのでこのくらいにしておきます。

 

拗れに拗れまくった私の性格はもう変えられないです。

 

みんなが知らない音楽聴くのが気持ちいい。みんなが知らない映画を観るのが楽しい。鉄男とか観てもさっぱり理解できなかったけど観たってことが大事。他人の目に映る自分が、いかに風変わりであるかにこだわる。

 

こんな大人になりたくなかった。過去の私は、きっと今の私を見下している。

 

屋上の話

こんにちは。

みなさん、意外と屋上って行ったこと無くないですか?

なんかやたらと青春の代名詞ツラしてますけど。

昔地元にいた頃は色んな学校の屋上に入ろうと試みたんですけど全て鍵かかってて入れませんでした。

 

 

この間突然「死のう!」という声が聞こえた気がしたので、死ぬ準備をしました。

飛び降りは怖いしグロいから嫌だけど夜遅くに首吊りの準備めんどくさいなと思った。

とりあえず好きな服着て死にたい。一番気に入ってる服着て靴履いて、髭も整えて。

遺書には、葬式をやらないで 私が死んだことは誰も触れないでくださいね。と記し。

別に鬱が悪化したとかではなく、たま〜に死に対してこうなるときがある。そういう時は一回死ぬ準備をすると気持ちが落ち着くものだ。

 

タバコを3本と、スマホ。イヤホン。

普段は飲みもしないお酒とお部屋に溜まってあった薬を、その辺に落ちてた薬局のビニール袋に詰め込んで屋上へ向かいました。

 

プランとしては死ぬ前に聴きたい音楽を流してタバコを3本吸い終わったら、薬と酒で酩酊しそのまま落下するというものだったんですよね。

死ぬ前に誰かに連絡すると言うのはとんでもない迷惑行為ですが、まあ好きな人にだけは連絡しておこうかなとかぼんやり考えてました。

 

しかし!なんと屋上のドアには鍵がかかっていまして、うわーまじかよ...めんどくさいな〜

と言う気持ちに。

結果として私の出不精が功を奏してアホ晒しながら自殺計画は敢えなく失敗となりました。

こんなんじゃいつまで経っても自殺はできない気がしてきた。

 

普段から死にたがってるけど、最近自分が生きることに若干の執着があることを理解し始めている。

実際兄弟とか友達のこと考えるとまだまだ楽しいことたくさんしたいんですよ。

 

できることとできないこと、なりたい大人になれなかったこと、自分の理想と現実の乖離が主に死にたくなる原因で   それを言い訳のように、あたかもそれっぽく外的要因のせいだと言い張っていました。

私を「生きづらい」足らしめていることのほとんどは、私に起因するものだ。

 

 

結局私という人間は「何者にもなれなかった」という概念にコンプを抱いている、ソレなのだ。

 

人生で何にもできなかったやつは文字に逃げる。

 

と言うわけで屋上にまつわるエピソードでした〜ばいばいまたね。

 

外科的な身体改造によって齎される幸福と倫理

こんにちは。

みなさん、身体改造してますか。

僕はエニタイムとかいう悪徳企業に毎月7000円くらい徴収されてます。

※本題に入るまで長いので流し読みしてもらって構いません。

 

ここで言う身体改造とは、所謂筋トレとかそういったものではなくて  文字通り改造することです。

 

・まずはじめに

昨今、義手・義足など社会生活を営む上で必要であるものや人工臓器のように生命維持を目的としたインプラントは常識になっています。

美容整形もここ10年で広く普及しましたね。

 

言い方は悪くなってしまいますが、本来ならば五体満足な人よりも欠損した部位を補っている人が発揮できるパフォーマンスは劣っているという印象があった。口にはしないだけで誰もがそう思っていたはずです。

しかし技術の進歩とともに(当人の努力も当然含む)いよいよそういったインプラントを身体に埋め込んでいる人が、我々五体満足な人間よりも優れたパフォーマンスを発揮できるようになりました。

 

・人の力を超える身体障碍者

15年、パラ陸上選手権大会にてマルクスレームは走り幅跳びで12年ロンドンオリンピックの優勝記録を超える8m40cmという記録を叩き出し、2018年には8m48cmを記録。彼は2012年から2018年の6年間でおよそ1m程記録を更新している。

 

また16年リオパラリンピック男子1500mでは、リオオリンピック男子1500m金メダリストの記録を上回った選手が4名もいるという。

 

このことから義足をもつ陸上選手はすでに健常な人の力を超えていると言えるだろう。

彼らは先天的、後天的に手足を失ってしまったのだろう。それでも諦められない夢に向かい足を手に入れた。

そうして手に入れた足は日々技術的な進化をしている。前述した通り当人らは並々ならぬ努力をしているのだろう。

 

しかし言ってしまえばこれはドーピングの一種のようなものではないのか。

人間の能力はどれだけ努力しても天井がある。しかし科学の力は天井知らずだ。

 

健常者が自らの意思で足を落とし、義足をつけ、身体的能力の向上を図るのはどうだろうか。

過程はどうあれ結果として前者も後者も義足を持つ人、という分類で変わりはない。

 

・本題

身体改造によって齎される幸福、それは前置きで書いたように目に見えてわかるものだ。

彼らが日々暮らしやすくなるために必要である大事な身体の一部。

身体障碍者の人らが義手義足などのインプラントを装着すること自体に何も問題はない。

 

だが、自らの肉体に限界を感じ更なる向上を望む健常者が身体改造に踏み込むのはどうだろう。

前述した通り、過程を省けば結果として残るものは同じだ。

 

・美容的・ファンション的な観点の身体改造

一口に身体改造と言っても、内容は多岐に渡る。

私はピアスが好きで一番多かった頃は全身に30個近くの穴が空いていた。数こそ減ったが今でも一番大きい穴は10mmほどで、タバコが通る。

ピアスはおそらく我々の暮らしの中で最も浸透している身体改造のひとつだと私は思う。

耳はもちろん、顔、口内、身体、バリエーションが豊富である。

また、美容的な身体改造といえば顔の整形がメジャーだ。

人間というものはやはり美しさに日々憧憬を抱いており自らを高める一つの手段として美容整形がある。

骨を削ったり元々ないものを埋め込んだり、目を大きくしたり、こちらも様々な手法がある。

 

これらの身体改造は理解が進んでおり、拒否感を抱く者はいるが否定する者はそこまでいないはず。

自らの意思でやるかやらないかを決めることができる。

また、社会通念上に存在している。

つまり道徳的・倫理的に問題はないと言える。

 

・能力向上のための改造

散々擦ってきた内容だが、自身の身体の能力をアッパーするための身体改造について。

まずは義手義足といった最も普及しているインプラントについて。

元来、正常・健康な肉体。そういった理念のもと生み出され欠損したパーツを補うための義手義足だがいよいよ人間の能力を大幅に上回った性能を獲得してしまった。

これは果たして正常と言えるのか?異常なのか?

肉体が絡んでいるものなのでなかなか難しい議題だろう。

私個人の意見として、オーバースペックなパフォーマンスを発揮してしまった時点で異常だと考える。

だが私はこういった改造には肯定的だ。理由は後述する。

 

・倫理的観点から見る身体改造

こちらも少し触れた内容だ。

健康的な人間が自らの体で到達できる地点に至り限界を感じた時。その人にとって体は健康、正常であると思えるのだろうか。

どれだけ頑張っても既に伸び代がない。

それに気を病んでしまったら、健全な状態と言えないのではないのだろうか。

そこで意図的に身体を欠損させ、自らの身体を上回る性能を有しているパーツに置き換える。

限界を超え出力を上げることを想定した身体改造を行う。

 

こういった行為は基本、倫理的に許されていない。

それが正論だと私も理解している。

これは不可逆的なサイボーグ化。

健常者が肉体の一部を置き換えることによって元の肉体に戻ることなんて2度と叶わない。

ましてや自ら身体を欠損させる行為は法律上かなり難しいだろう。

 

・身体完全同一性障害

身体完全同一性障害(BIID)という病気が存在する。

自身の身体の一部に違和感を覚え、それを排除しようとする。といった症状だ。

私が過去に見た映画で「あなたに触らせて」という作品がある。作中に登場するキャラクターもこの病気を患っていて自傷を繰り返し、果ては道路に横たわりわざと車に足を轢いてもらうといった行動に出ていた。

現実でそこまで突飛なことをする人はいないと思うが、ドライアイスで足を極限まで冷やして凍傷させ、病院で切除手術をしてもらったという事例はある。

1970年代までBIIDは四肢欠損により興奮を覚える性的倒錯だと扱われていたが、性同一性障害のように脳がどのようにカタチを捉えているのか、どのように自分を見つめているのか、という点にフォーカスされ身体イメージ、また理想の体と現実の体の乖離を起こしてしまう病だと認められた。

ここでも言えることがこの状態は健康・正常ではないということ。

彼らが罹患している病はなぜ他の病と同列に扱ってもらえないのだろう。

ステレオタイプな「健康」という概念は、甚だ厄介だ。

 

 

・私が身体改造について肯定的な理由について

先述した通り、倫理的にダメだと理解していてもなお私が身体改造に肯定的な理由。

それは人の幸福を諦めたくない。命に絶望することを許したくない。皆が望む姿でこの世界は構築されるべき、と考えているからだ。

私は常に死にたがりで、自分の命に悲観している。

これはもうどうしようもないので半ば諦め受け入れた。

しかし、この世に存在している人間がそんな絶望で満たされてしまうのはあまりにも悲しい。

人の幸せは全て異なっていて、一般的な枠組みから逸脱しているケースはザラにある。

そんな人たちが、幸せという概念を享受できずに生き続けなければいけない事実が嫌で嫌で仕方がない。

一人でも幸福に近づける世界が理想だ。

それが技術的、倫理的に難しかったとしても人として産まれた以上 個々が望む幸せの形に変容できる世界は素晴らしいはず。

「健康で正常」な人間の観点でしか物事が進まない、そんな世界が嫌いです。

下らない倫理を捨て、人間は次の姿へ進化することが今後の課題だ。

さもなくばこの世は衰退し滅びる。

 

みなさんの幸せって、なんですか?

人生とかいう、終わってる現象。

こんにちは。

皆さんは人生、楽しんでますか。

僕は楽しくないです。

 

幸福度ってあるじゃないですか。

あれって命がある限り減衰し続けてしまうと思うんですよ。

幸と不幸が等量なんてあり得なくて、不幸の方が圧倒的に多いです。

 

生まれた段階が幸福度の天井で生きているうちにどんどんと削られていく。

何も知らないことが1番の幸せで、知識を蓄えるほど不幸が生まれます。

 

僕たち人間は恋人を作ったり、美味しいものを食べたり、欲しいものを買ったり、人生を多岐にわたる欲で満たし続けます。欲が満たされたときに幸せ、と思えるようになります。

当然だが自分にとって幸せな出来事が発生した瞬間、自分にとって不幸せな出来事が起きてしまう未来が確定する。

幸せの絶頂に対して失う悲しみの反動は巨大だ。一時的に幸福度を上げることは可能だけど、そんなもの一生続くわけではない。

このことを幸せの前借りとする。

 

生きるということはどこまで行っても救いのないクソゲーです。

生きている間中、様々な外的要因に刺激されそれを自分の中で処理し続けなければいけない。

恐怖、悲哀、怒りや喜び、絶えることのない感情の奔流を味わい続ける。

人が構築した社会というものは生活を彩るわけでもなく、幸せと不幸せを可視化させるためのものになっている。

一般的、という誰が作った概念なのかわからないものによっていちいち採点される。

美しい人類の叡智なんて、もうどこにもない。

 

高度に発達した文明に於いて私たち人間は、幸せを模索している。

人生が絶望であることを認めたくないから。

けれども幸せの前借りを連続させた果てにあるのは、おそらく幸福の倍くらいある不幸だ。

 

万物は朽ちていくばかりで

人と人の別れは必ず到来する

苦しみは絶え間なく存在していて

毎日自分を削って暮らしている

徐々に廃れていく生活に美しいエンディングなんてなくて

人生の最果てでただの肉になる。

これが僕らの全てです。

 

いつか終わりが来ると知っていても尚、人間は愚かなのでそれを否定しようと幸せを前借りし続け何事も最後に絶望します。

楽しくて幸せなこともいいけれど、長い目で見れば結局は辛くなったり寂しくなるだけ。

天涯孤独で誰にも愛されず、誰も愛さず生きることが最良かもしれない。

幸せの前借りで未練を作ってしまったばかりに、私たちは来たる絶望に対して身構える羽目になるのだ。

自分から幸福を築くよりも、最高の状態を想像するよりも、最初から不幸の流れに身を任せた方がきっと楽だ。

幸福度というのは丁寧に蓄積させるものでなく、いかに上手く消耗させるか、それが現代を生きていく上で私たちに必要なスキルなんだろう。

最後には何も残らないのだし、そんなもの死ぬまで大事にしていて何の意味があるのか  なんて詭弁ですかね。

 

人生とかいう終わってる現象に立ち向かうべく、常に不幸でいましょう。そしたら最後は幸せです。