外科的な身体改造によって齎される幸福と倫理

こんにちは。

みなさん、身体改造してますか。

僕はエニタイムとかいう悪徳企業に毎月7000円くらい徴収されてます。

※本題に入るまで長いので流し読みしてもらって構いません。

 

ここで言う身体改造とは、所謂筋トレとかそういったものではなくて  文字通り改造することです。

 

・まずはじめに

昨今、義手・義足など社会生活を営む上で必要であるものや人工臓器のように生命維持を目的としたインプラントは常識になっています。

美容整形もここ10年で広く普及しましたね。

 

言い方は悪くなってしまいますが、本来ならば五体満足な人よりも欠損した部位を補っている人が発揮できるパフォーマンスは劣っているという印象があった。口にはしないだけで誰もがそう思っていたはずです。

しかし技術の進歩とともに(当人の努力も当然含む)いよいよそういったインプラントを身体に埋め込んでいる人が、我々五体満足な人間よりも優れたパフォーマンスを発揮できるようになりました。

 

・人の力を超える身体障碍者

15年、パラ陸上選手権大会にてマルクスレームは走り幅跳びで12年ロンドンオリンピックの優勝記録を超える8m40cmという記録を叩き出し、2018年には8m48cmを記録。彼は2012年から2018年の6年間でおよそ1m程記録を更新している。

 

また16年リオパラリンピック男子1500mでは、リオオリンピック男子1500m金メダリストの記録を上回った選手が4名もいるという。

 

このことから義足をもつ陸上選手はすでに健常な人の力を超えていると言えるだろう。

彼らは先天的、後天的に手足を失ってしまったのだろう。それでも諦められない夢に向かい足を手に入れた。

そうして手に入れた足は日々技術的な進化をしている。前述した通り当人らは並々ならぬ努力をしているのだろう。

 

しかし言ってしまえばこれはドーピングの一種のようなものではないのか。

人間の能力はどれだけ努力しても天井がある。しかし科学の力は天井知らずだ。

 

健常者が自らの意思で足を落とし、義足をつけ、身体的能力の向上を図るのはどうだろうか。

過程はどうあれ結果として前者も後者も義足を持つ人、という分類で変わりはない。

 

・本題

身体改造によって齎される幸福、それは前置きで書いたように目に見えてわかるものだ。

彼らが日々暮らしやすくなるために必要である大事な身体の一部。

身体障碍者の人らが義手義足などのインプラントを装着すること自体に何も問題はない。

 

だが、自らの肉体に限界を感じ更なる向上を望む健常者が身体改造に踏み込むのはどうだろう。

前述した通り、過程を省けば結果として残るものは同じだ。

 

・美容的・ファンション的な観点の身体改造

一口に身体改造と言っても、内容は多岐に渡る。

私はピアスが好きで一番多かった頃は全身に30個近くの穴が空いていた。数こそ減ったが今でも一番大きい穴は10mmほどで、タバコが通る。

ピアスはおそらく我々の暮らしの中で最も浸透している身体改造のひとつだと私は思う。

耳はもちろん、顔、口内、身体、バリエーションが豊富である。

また、美容的な身体改造といえば顔の整形がメジャーだ。

人間というものはやはり美しさに日々憧憬を抱いており自らを高める一つの手段として美容整形がある。

骨を削ったり元々ないものを埋め込んだり、目を大きくしたり、こちらも様々な手法がある。

 

これらの身体改造は理解が進んでおり、拒否感を抱く者はいるが否定する者はそこまでいないはず。

自らの意思でやるかやらないかを決めることができる。

また、社会通念上に存在している。

つまり道徳的・倫理的に問題はないと言える。

 

・能力向上のための改造

散々擦ってきた内容だが、自身の身体の能力をアッパーするための身体改造について。

まずは義手義足といった最も普及しているインプラントについて。

元来、正常・健康な肉体。そういった理念のもと生み出され欠損したパーツを補うための義手義足だがいよいよ人間の能力を大幅に上回った性能を獲得してしまった。

これは果たして正常と言えるのか?異常なのか?

肉体が絡んでいるものなのでなかなか難しい議題だろう。

私個人の意見として、オーバースペックなパフォーマンスを発揮してしまった時点で異常だと考える。

だが私はこういった改造には肯定的だ。理由は後述する。

 

・倫理的観点から見る身体改造

こちらも少し触れた内容だ。

健康的な人間が自らの体で到達できる地点に至り限界を感じた時。その人にとって体は健康、正常であると思えるのだろうか。

どれだけ頑張っても既に伸び代がない。

それに気を病んでしまったら、健全な状態と言えないのではないのだろうか。

そこで意図的に身体を欠損させ、自らの身体を上回る性能を有しているパーツに置き換える。

限界を超え出力を上げることを想定した身体改造を行う。

 

こういった行為は基本、倫理的に許されていない。

それが正論だと私も理解している。

これは不可逆的なサイボーグ化。

健常者が肉体の一部を置き換えることによって元の肉体に戻ることなんて2度と叶わない。

ましてや自ら身体を欠損させる行為は法律上かなり難しいだろう。

 

・身体完全同一性障害

身体完全同一性障害(BIID)という病気が存在する。

自身の身体の一部に違和感を覚え、それを排除しようとする。といった症状だ。

私が過去に見た映画で「あなたに触らせて」という作品がある。作中に登場するキャラクターもこの病気を患っていて自傷を繰り返し、果ては道路に横たわりわざと車に足を轢いてもらうといった行動に出ていた。

現実でそこまで突飛なことをする人はいないと思うが、ドライアイスで足を極限まで冷やして凍傷させ、病院で切除手術をしてもらったという事例はある。

1970年代までBIIDは四肢欠損により興奮を覚える性的倒錯だと扱われていたが、性同一性障害のように脳がどのようにカタチを捉えているのか、どのように自分を見つめているのか、という点にフォーカスされ身体イメージ、また理想の体と現実の体の乖離を起こしてしまう病だと認められた。

ここでも言えることがこの状態は健康・正常ではないということ。

彼らが罹患している病はなぜ他の病と同列に扱ってもらえないのだろう。

ステレオタイプな「健康」という概念は、甚だ厄介だ。

 

 

・私が身体改造について肯定的な理由について

先述した通り、倫理的にダメだと理解していてもなお私が身体改造に肯定的な理由。

それは人の幸福を諦めたくない。命に絶望することを許したくない。皆が望む姿でこの世界は構築されるべき、と考えているからだ。

私は常に死にたがりで、自分の命に悲観している。

これはもうどうしようもないので半ば諦め受け入れた。

しかし、この世に存在している人間がそんな絶望で満たされてしまうのはあまりにも悲しい。

人の幸せは全て異なっていて、一般的な枠組みから逸脱しているケースはザラにある。

そんな人たちが、幸せという概念を享受できずに生き続けなければいけない事実が嫌で嫌で仕方がない。

一人でも幸福に近づける世界が理想だ。

それが技術的、倫理的に難しかったとしても人として産まれた以上 個々が望む幸せの形に変容できる世界は素晴らしいはず。

「健康で正常」な人間の観点でしか物事が進まない、そんな世界が嫌いです。

下らない倫理を捨て、人間は次の姿へ進化することが今後の課題だ。

さもなくばこの世は衰退し滅びる。

 

みなさんの幸せって、なんですか?